死について考えるとは、生きることについて考えること

11月3日の日曜日、ハノイ日本人学校で開催されていた日本まつりに家族で訪れました。ここで恒例になっている古本市。日ごろ、活字に飢えているベトナム生活の足しに何冊かの本と、子供用の絵本を購入しました。陳列されていた限られた古書の中から少しでも興味あるものをピックアップしたわけですが、その中で出会ったのが、『バカの壁』からの連作として書かれた本でした。

『死の壁』 養老孟司, 新潮新書, 2004年

背表紙に書かれたタイトルに何かひかれるものがあって手にとったのですが、読後の感想を僕なりにまとめるならば、死について考えることは、生きることについて考えること。生きることについて考えることは建築について考えること。

建築家の内藤廣さんが高校生時代、進路に悩んでいたときに山口文象さんに受けた建築の扱う領域の広さを示す助言を思い出しました。

「何をやりたいかよくわからない」と言ったら、「建築をやっていたら何にでもなれるから取りあえずやってみたら」と助言されました。建築は人間の生活や人間そのものを扱うのだから、そのつもりで行けば、最後は建築家にならなくても構わないだろうという話でした。

*出展 『NA建築家シリーズ03 内藤廣』, 日経アーキテクチュア編、2011年

実際、建築を学んだ僕の友人たちは、料理、ファッション、IT、工芸、プロダクトデザインなど、さまざまな分野で活躍しています。そんな懐の広い建築学ですが、死に関する講義はなかった。僕が学生時代に出会った死に関するものといえば、大学の一年上の先輩である建築家、メジロスタジオの古澤大輔さんの卒業設計。原宿駅の臨時プラットホームを斎場化するというもので、人里から離れた斎場できれいに「処理」される「死」に疑問をなげかけるものでした。

ハノイに来て3年。ここでは、お葬式は家の前に斎場が設けられます。葬儀や排泄や衛生について綺麗になりすぎた日本よりも「身体」を身近に感じるこの国で、いま一度、「死」をてがかりに得られた僕なりの視点を読後に残しておこうと思います。

システムは簡単に壊すことができる。

「システムというのは非常に高度な仕組みになっている一方で、要領よくやれば、きわめて簡単に壊したり、殺したりすることができるのです。(p.18)」

私たちは、地球という生態系の中に人為的に国家というシステムをつくり、その中に都市というシステムをつくることで生活しています。それらはすべてシステムの中に流れを維持することで成り立っているといえます。

アジアの都市建設や住空間は風水思想などにみられるように、これまで周囲の流れを「気」として経験的に解釈して、コントロールしようとしていました。現在ではインフラの整備やIT化によってエネルギー供給や物流の効率化がすすみ、結果として都市はさらに巨大化し、住宅地は高密度化しています。都市は大量のエネルギー、食料を集め、消費する流れの集中する場になったわけですが、その一方で、自然の流れを軽視し、人工的にすべてをコントロールしすぎているように感じます。もし、その流れが滞ったとき都市はどうなってしまうのでしょうか。

多くのガラス張りのオフィスビルや高層集合住宅は電気がなくては使うことができません。ハノイは私たちが来てから3年間の間に、交通インフラがととのい、スーパーができ、都市が日々、効率化していくのがわかります。同時に多くの高層ビルが立ち上がり、順調な効率化の一方でエネルギーシステム、特に電気、水道の脆弱さの改善はいまひとつのように感じます。住宅をふくめた多くの建物が発電機を備えていますが、停電が長期化すれば、都市が機能しなくなることは明白です。

今後より効率化、巨大化が進むのは、世界の都市の歴史からみても避けられないことでしょう。しかし、ハノイの街の界隈性を残しながら、緑あふれる低・中層の建物を計画していくことが地に足がついた発展につながるとおもいます。

社会の制度としての切れ目にこだわらない

「どういう形にせよ、社会の制度としては切れ目を決めることを求められます。その線引きが必要とされる。-中略- 現に社会の通年として、死亡診断書には死亡時刻を書くことになっている。そして、そこでは「この時点から死だ」ということは決まっているわけです。(p.56)」

建物は、設計からはじまり、着工、上棟、そして引渡しを経て、めでたく竣工することになります。基本的には私たちが建物とかかわるのはそこまでで、うれしくもあり、手が離れる寂しいときでもあります。

しかし、建物は生産にかかった何十倍もの時間、使われ、残っていくことになります。その間に使われるエネルギー(ライフサイクルコスト)、環境の変化への対応、メンテナンス等について設計時に思いをはせて用意しておくことが、建築を生み出す立場の人間として心がけておかなくてはならないことです。

人を殺す可能性について意識する

「そもそもああいう立場に立つ人間は、自分の下す決定で、人を殺す可能性があるのです。さまざまな工事で事故死する人間がいるということを承知していなくてはならない。今では不要だというのが専らの評判である本四架橋を何本も作っている間にはけが人や死亡者を出したでしょう。そんなこともわからずにエリート面してどうするのか。(p.139)」

工事をする際には、高いところへのぼったり、可燃性の塗料をつかったりと、危険が伴います。先日、ハノイの新しい人気スポットであるゾーン9の中に新しく作られていたバーの工事現場で溶接の火花が火災を引き起こし、6人もの作業員の方が亡くなったのは記憶に新しいところです。

建設中に限らず、建物をつくることは人が怪我をしたり亡くなることがあるということですから、人の命を預かっている立場として、心してとりかかるだけでなく、スタッフ、現場監督がより安全に注意を払うよう問いかけていきます。

特に、若いスタッフや工事監督の多いベトナム。言って対応させるだけでなく、説明させることで自分たちの頭で考え、想像してもらいたい。言葉の壁はありますが、スケッチや数字でのコミュニケーションも交えて、安全に安全な建物を作っていきたいと考えています。

言葉にできない領域を大事にするグリーンビルディングのありかた

「意識化することをひとつの目標とするのは、学者としては正しい立場なのかもしれません。しかし、私はどこか根本的に見落としている点があるような気がするのです。言語に絶するというか、どこかで言葉にできない領域というのはあるのではないか、あってもいいのではないかと思うのです。(p.156)」

昨今、先進国では、アメリカのLEEDをはじめとしたグリーンビルディングの評価システムが多くの建物で採用されはじめています。建物の性能を細分化し、点数によって、建物の性能を評価する仕組みです。ベトナムではLOTUSというグリーンビルディングの評価システムがあり、わたしたちの幼稚園のプロジェクトでも採用されました。この評価システムでは性能面では、点数のための細かい基準がある一方、デザインの評価というのは極端なほど重視されていません。

点数取得のための太陽光発電などが評価されますから、台湾でLEEDゴールドを教育施設ではじめてとった建物などは、いろいろなものをくっつけたサイボーグのようないでたちになっていたりします。

竣工後、設備は陳腐化する一方ですが、建物の空間性、デザイン性、快適性は、末永く建物を使ってもらうのに必要不可欠なものです。デザインを二の次にして、サスティナブルな建物が作れるようには思いませんが、よい空間、よいデザイン、プランニングというものは数値化することができない点でもあります。

建物を設計している立場として、評価システムに疑問符がつくことが多い部分です。

「見ること」は建築家の仕事のうち

「繰り返し申し上げているように人間は変わるものですが、変わってしまった自分というのは別人です。その状態を予想するのは、ちょっと怖いことなのです。(p.162)」

建築と生活とは切っても切れない関係にあります。起きている時間すべてが建築とのかかわりといっても過言ではありません。その建築が人に影響を及ぼさない訳がありません。日常から喜怒哀楽の絡んだ人生の大事な転換点まで、建築家がつくる空間は多かれ少なかれ人に影響を与えるものになります。その影響は大変小さいものかもしれません。しかし、自分の人生を振り返ってみると、いろいろな記憶と一緒にあるのは常に空間の記憶です。

建築家は、見えないものを具現化するのが仕事です。要件、予算、敷地など、さまざまな状況から建物をつくりあげていきます。その過程においては、体験したことのないことを想像する力が必要です。その精度をあげ、よりクリエイティブに人々の活動のバックグラウンドとなる空間をつくるためには、さまざまなものを体験しておくしかありません。百聞は一見にしかず。「見ること」「体験すること」を怖れない好奇心こそが、明日の建築をつくりあげていく原動力になります。

参考文献

『死の壁』 養老孟司, 新潮新書, 2004年

 『NA建築家シリーズ03 内藤廣』, 日経アーキテクチュア編、2011年